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シリーズ:日本陸水学会の歴史を振り返って(3)

学会創立当時の思い出

山本 荘毅

先日信州大学諏訪湖研の沖野さんからお手紙を頂いた。 日本陸水学会についての思い出をというお話しである。 この頃この種の手紙がよく来る。 考えてみると恩師・先輩が亡くなり、同級生でも亡くなりつつあるから当然で仕方がない。 温故知新のため?

 私にとっては日本の陸水学会で忘れることのできない2人の偉人と多少なりつながりのあったという幸福な思いがある。 湖沼学の創始者田中阿歌麿先生と吉村信吉先生の2人である。 私は”偉人”とは新しい仕事を始めた人、または多くの仕事を成し遂げた人をいうという定義を与えたい。 日本で湖沼学を始めた田中先生は旧尾張藩士の長男で明治政府の外交官としてジュネーブにいた。 私はここでLe lac Lemanの著者Forel, A.と関係があったと思っていたが御長女千代氏の夫君であった田中薫(神戸商大教授・地理学)さんからのご連絡によると田中先生はベルギーリエージユに移られここの大学の地理学教室で湖沼学を学んだという。 何という先生か調べてないが、1895年この教室を卒業し、帰国されてから日本最初の湖沼調査を河口湖で行ったことは有名で続いて長野県内の湖沼調査を行っている。 常勤としては早稲田大(?)で、東京高師の非常勤講師をされたことがある。 筆者は先生の講義を受けたことはないが先生は高師の近くの小日向台に住んでおられて、吉村先生のお伴をして1〜2度お目にかかったことがある。 痩身のお公卿様という感じだったことを覚えている。

 吉村信吉先生は牛込区新小川町(当時)に住んでおられた吉村信二氏の長男で弟さんがお2人である。 先生は都立小石川高校(当時の五中)、旧制浦校、東大地理の出身であるが中学時代五中の同窓会誌に千葉県お蛇ヶ池における湖沼観測の結果を発表している。 古河工業の重役であった父君は信吉先生の湖沼学研究に反対し一切の援助をしなかったが母君は理解を示しおこずかいを割いて観測・旅行の費用を提供した。 財閥の家に生まれながら研究費には困り種々の科研費で研究を行った。 私の記憶では仙台の斉藤報恩会から連続的に多額の費用を貰っていたようである。

 日本陸水学会50周年記念の時、文部省の倉庫にあったという”日本の湖沼”という8mmフィルムが、上映され、ここには私と吉村先生が湖沼の観測をしている光景が記録されている。 この帰途、上野不忍池畔の小料理屋で御馳走になったが、銚子出身の私がサシミを食べないこと、魚の皮を食べないことについてそれはいけないと注意を頂いた。 先生に御馳走になったのはこれ一回位しか記憶にないが、酒に強いという印象はある。

 順序は逆になるが私が先生に弟子入りをしたのは私が東京高師に入学した1年の秋である。地歴科に入り、何の勉強をしようかと考え”水”に決めた。 先輩に相談すると、「それは良い、大学に吉村という先生がいるから相談しなさい」といってくれた。 早速先生の研究室を訪れたところ「いつでもこの部屋にきてよい」とのことであったのでW320という研究室にヒマがあれば入り浸った。 事務机が窓に面して一脚あり、薬品棚と分析台、ガス・水道付きの小さな部屋であったが非常勤の先生に対する処遇としては当時の官立大学として破格の厚遇であったと思う。
 
 私は”押しかけ秘書兼助手”になった。 先生の机の上には内外からの手紙・文献・事務書類、学会への原稿が山積し、バラバラになっているので整理を手伝ったが私一存では出きぬことも多く閉口した。 当時、研究室の近くに根来健一郎さん(当時助手)や岡田弥一郎さん(当時教授)の室があり、私が大学2年の時白石芳男君が訪ねてきて時々顔をみせることになった。 小島貞男君は無名の一生徒、洞沢勇さんが研究熱心な大学生であった。

 陸水学会の例会は時々開かれたが、最初は東大の山上御殿や文理大のW325という地理の階段教室を使い、後に神田の学士会館で行うようになった。 参加者は数名から20名で個室は借りず、現在集会室になっている一階入口右側の大部屋の片隅で行った。 私の仕事は講演要旨のガリ印刷、日本陸水学会例会・演題を書いたプラカード板の運び屋であった。 この例会の席で私は宇田道隆・稲葉伝三郎(水産大)や川村、宮地、上野、菅原、菊池先生らの碩学に会うことが出き、すごくうれしかった。

 昭和8年の会員数は名簿によると185名で有名な生物教室の先生方は皆会員になっていたが、このほか当時超一流の地球物理、地質、地理の先生方が入会していた。 私にとっては神様のような先生方、例えば岡田武松、藤原咲平、日高孝治、坪井忠二、地質では小川琢治、加藤武雄、佐々保雄、矢部長克、田中館秀三、脇水鉄五郎、早坂一郎、地理では辻村太郎、今村学郎ら超一流の碩学と時々はお目にかかることができた。 名簿によれば、これら理学部の先生方だけでなく工学部関係の阿部謙夫(水文学・土木)、神原信一郎(土木)らの名前もみえ、学部・学科をこえた広い交流のあったこと、現在の生態学優勢とは異なりIHP、IAHS的な集合協同体であったことがわかる。

 陸水学とは何ぞやなどという哲学的な方法論という妖怪にまどわされることもなく、実践科学への道を健実に進んだことが思い出される。 最近は環境問題に関連し、イデオロギーとかマスコミという変化(へんげ)にふり廻されている。 初期の時代におけるような関連科学との協力関係に思いをはせ、世論に媚びない正しい研究の確立に努力するようにしたいと思っている。

 最近、バイカル、琵琶湖等の起源、変遷に関し日本の研究が注目をあびているが、湖沼の幼年期研究だけでなく、老年期の湿原・沼沢についてもスエーデン学派の研究にメスをいれて貰いたいと思っている。

 嘗て吉村先生を頂点に地理学出身の湖沼研究者が輩出した。 直接の指導を受けたのは永森忠正、筆者(文理大)のほか川田三郎、増沢譲太郎、西条八束(以上東大)で、間接的になるが堀江正治(京大)、新井正(立正大)、森和紀(三重大)、堀内清司(日大)、佐藤芳徳(上越教育大)等が研究を行っている。もっとふえて欲しいと思っている。(平成8. 5. 27. 慶応病院にて)



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