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シリーズ:日本陸水学会の歴史を振り返って(4)

創立当時の研究者とその後の発展をめぐって

宝月 欣二

 この度,編集委員長の三田村緒佐武さんから,このシリーズに何か書くようにとの依頼があった。 シリーズの第1回に森主一さんが書かれているように,本学会の創立の歴史からすると,筆者は創立に直接関与した者ではない。 しかし,永年,会員としてお世話になり,陸水学に関係する研究に従事してきた者として,何か役に立てることはないかと考えた結果,創立当時に活躍されていた陸水学関係の先輩の方たちについて,特に上野益三氏の労作「陸水学史(1977)」にあまり詳しく紹介されていない人,あるいは全く登場しない人などについての思い出を,また,その後の本学会の発展などについてのいくつかを記してその責を果たしたいと思う。

 最初に筆者の陸水学との係わりと,指導を受けた中野治房先生について述べる。 筆者は生まれてから高等学校(旧制松本高等学校)を卒業するまでを長野県で過ごした。 高等学校の同級生に小穴進也さん,後輩に西條八束さん(共にのちに名古屋大学教授)がいる。 1935年に東京帝国大学理学部植物学科に進んだ。 植物学教室は,その前年に小石川植物園から本郷の理学部2号館に移ったばかりで,2号館には植物学教室のほかに,動物学,人類学,地質・鉱物学などの諸教室が入っていた。 植物学教室には,形態学,分類学,生理・生化学,生態学,細胞・遺伝学などの研究室があり,その中では生理・生化学,分類学,細胞・遺伝学の3研究室への志望者が多く,大学院生や研究生であふれる研究室で,他は小研究室であった。

 学部学生は3年次に卒業研究をいずれかの研究室に所属して行うことになっていた。 筆者は植物生態学研究室を志望し,中野治房先生の指導で,湖沼における大型水生植物の分布下限と補償深度との関係を調べることになり,これを諏訪湖と木崎湖で行うことになった。 研究室には,その当時,助手の岡現次郎氏(のちに文部省)のほかに大学院生2名,研究生3名がおられたが,陸水学関係の研究をしている人は,筆者を除いて一人もいなかった。

 中野治房先生は1883年に千葉県東葛飾郡湖北村(現在は我孫子市)に生まれ,第一高等学校を経て東京帝国大学理学部植物学科に学ばれ,1909年に卒業,大学院に進まれた。 この間の指導教官は三好学教授であった。その後,水産講習所,第七高等学校の教授をされ,1924年に東京帝国大学理学部の助教授になられた。 1916年には「数種の緑藻類の発育および栄養生理学的研究」によって学位を取得された。 1934年には東京帝国大学教授になられ,1943年に定年により退官された。 退官後は郷里に住まわれ,近くの東邦大学の理学部長をされ,1973年に90歳で亡くなられた。

 先生の東京帝国大学時代の研究活動は,簡単にいえば水界(淡水)および陸上の植物の個体生理・生態学的研究および群集生態学的研究で,すこぶる多岐にわたっている。 それらの中で目立つのは湖沼および湿原の大型水生植物群落の生態学的研究である。 調べた湖沼には手賀沼(1911),諏訪湖(1914),田沢湖(1915),野尻湖(1916),藺牟田池(1920),青木湖・中綱湖・木崎湖(1930)などがあり,植物学雑誌か田中阿歌麿氏編の湖沼誌「野尻湖,諏訪湖,あるいは北アルプス湖沼の研究」の中に発表されている。 湿原に関しては,霧ヶ峯八島湿原(1919,1937),尾瀬ヶ原(1933),上高地田代湿原などの報告が天然記念物調査報告の中にある。 従来,稀産種,巨木,名木の類の報告が種であったこの報告書に群落,生物の生活が登場するようになった転換期を作ったのではないかと思う。

 次に,すでに亡くなられた陸水学関係の先輩について記したい。 すぐに思いうかぶ方々には田中阿歌麿,大賀一郎,菊池健三,菅原健,吉村信吉,宮地伝三郎,上野益三などの諸氏がおられる。 多くの方は上野さんの「陸水学史」に紹介されている。 そのため,ここではなるべく重複を避けて,二三の方々のことにとどめることにする。

 「大賀バス」で有名な大賀一郎氏は,東京帝国大学理学部植物学科卒で,中野先生と同級である。 植物細胞学,生態学を専攻され,永く満州教育専門学校の教授をされた。 満州ではいろいろな仕事をされているが,特に泥炭湿原から出土する植物遺物,とりわけハスの種子に興味を持たれた。 この研究は帰国後の千葉県検見川周辺の泥炭地から出るハスの種子の研究につながり,「大賀バス」あるいは「古代バス」といわれる発芽能力を保っている古いハスの種子の発見となった。

 大賀さんは東京都淀橋区(現在の新宿区)下落合に住まわれ,お宅の庭には水をはった水蓮鉢をところ狭しと並べ,ハスを育てていた。 いくつかの鉢にはいくつもつぎ足した土管を,棒で支えて立て,その中をハスの葉柄がどこまで伸びられるかを調べておられた。 植物学教室で開かれた中野先生主宰の「植物生態学談話会」にしばしば出席されて,よくハスの話をされた。 ある寺の重要文化財に中将姫がハスの糸で織ったと伝えられる「だいまんだら(大曼荼羅)」があるが,ハスの繊維で果たしてできるかを確かめたくて,ご自分の葉から集めた繊維を織ってもらったのがこの布片で,それで大曼荼羅の製作が可能だったことが示されたと,嬉しそうにその布片を示されたりしたことも記憶している。 とにかく,ハスに魅せられた人であった。

 筆者は卒業研究のために1938年の夏の約一ヶ月を木崎湖と中綱湖の中間,中農具川に沿って水産試験場の木崎分場があった。 ここには川尻,畑,武田の諸氏がおられ,研究に関しては非常にお世話になった。 とりわけ船外機のついたボートの自由な使用ができたとことは,研究の能率をよくし,ありがたかった。 菅原健氏(旧制東京高等学校,名古屋帝国大学教授)や菊池健三氏(東京女子高等師範学校,東京大学教授)にお会いしたのはそのときであった。 両氏は夫人と共に,木崎湖の西岸にある別荘(地元では学者村と呼んでいた)に滞在されており,時々パラソルをさされた夫人と湖にでておられるのが遠くからも見られた。

 菅原さんはアシスタントの小山忠四郎さん(のちに名古屋大学教授)と一緒に採水をされており,菊池さんは動物プランクトンの鉛直分布や日周活動,当時は非常に珍しかったセレン整流器を用いた水中照度計で水中照度を測っておられた。 両氏からは現場で仕事の話を聞くことがあった。 また,菊池さんからは水中照度計を筆者の仕事にも拝借したように記憶している。 なお,セレニウム光電池を用いた水中照度計は,川崎駅の隣にある東芝電気の研究所の若い技術者の手をわずらわせ,光電池を入れる容器の耐水に苦労し,光電池をいくつもだめにした末にやっと完成したことを記憶している。 おそらく日本で市販されるようになった水中照度計の第1号ではないかと思う。 東芝の若い技術者はその後に応召したが,以後の消息は不明である。

 菅原さんは1889年に東京に生まれ,1923年に東京帝国大学理学部化学科を卒業された。 若い頃から生物がお好きで,大学への進学の際に化学科にするか,生物関係の学科にするか迷われたそうである。 高等学校時代の植物学の先生だった高嶺昇教授の「生物学には基礎としての化学は必要であり,化学を修めてから生物学を学ぶのでも遅くはない」との助言によって化学科に決めたとよく話されていた。 学部では有機化学を専攻され,のちに恩師の柴田雄次先生に従って地球化学を志され,湖沼の物質代謝,物質循環の解明を,川越市に近い高須賀沼の研究(1932−1937)において試みられた。 この研究の総決算である「Chemical studies in lake metabolism」は,この分野の研究のその後の発展に多大な貢献をした。 菅原さんのもう一つの忘れられないことに,学会の講演会場ではいつも前の方に席をとられ,鋭い,しかも温かさを感じさせる質問をされていたことである。

 わが国の陸水学の近代化時代に,驚異的といえるほどの多くの業績を残し,39歳の若さで殉職された吉村信吉氏(1907−1947)も思い出の多い人である。 吉村さんについては多くの人の紹介や追悼文があるので,ここでは筆者だけの思い出を述べたい。

 筆者は1945年ごろから,仲間の研究者たちと諏訪湖の物質生産および物質循環を中心とした研究を計画し,着手していた。 具体的には湖内にいくつかの定点を設け,原則として毎月の観測・調査を前提とするものであった。 1946年の夏ごろ吉村さんから,若い人たちと諏訪湖で研究をやるが,今冬には是非一緒にしないかと連絡があった。 しかし,前記のような状況であったので,この仕事が一区切ったおりにと考えていた。

 吉村さんが殉職された1947年1月12日はちょうどこの月の予定の調査が終わり,採取した試料を持って帰京する日であった。 駅で買った地元紙の夕刊で吉村さんのことを知り,信じられない思いであった。 一緒に難に遭われた気象庁の増沢譲太郎氏(のちに気象庁長官)は地元の中学を出た地理学者で,この湖のことはよく承知されている人であり,またおそらく吉村さんたちが根拠地とされた湖畔の測候所は毎日の氷の状況を最もよく知っているはずである。 このような状況での事故は不測のものといわねばならない。それにしても残念なことであった。 もし筆者もこの調査に参加していたら,多少は水泳に自信はあるが,重い靴,厚いオーバー着用では,多分一緒に遭難したであろうと思ったりした。

 以上にいく人かの先輩の思い出を記し,さらに付け加えたい気持ちであるが,ここで話題を変え,本学会のその後の著しい発展に関連して,主観的かつ独断的との批判は覚悟の上で,いくつかのことを申し述べたい。

 わが国の湖沼の科学的研究は,約100年前の田中阿歌麿氏による山中湖での測深がなされた1899年に始まるとされている。 日本陸水学会の創立は,およそ65年前の1932年である。 今日までの学会の発展はこの間の会員数の増加,学会誌の変化にみることができる。

 上野さんの著(1977)によると,65年前に55名で発足した学会であるが,1995年現在には1,450名を越える会員を持つに至っている。 こうした傾向は種々の環境問題の深刻化の中で,世人の陸水への関心の高まりによるところが大きく作用したと思われるが,もっと広く学問に対する関心の高まりがあったことも否定できないように思う。

 本学会の古い雑誌と最近のものとを較べてみると明らかであるが,年間の発行ページ数や,発表論文数は格段の増加を示し,研究対象も大きく異なっている。 そもそも研究対象にその時代の緊急関心事が取り上げられるのはきわめて当然なことであり,もし外囲の変化が契機となって関心事が変わってくれば,それが研究対象に反映されることも大いにあり得ることである。 おそらく前記のような研究課題,内容の変化を招く契機となったと思われるいくつかを,思いつくままに,多少の蛇足を加えて示すと以下のようである。

(i)新しい視野の登場: 「生態系」概念がその例で,湖沼研究の中で生まれ,育ったものである。これは生物群集とその無機的環境との間の相互依存的関係の下に成立する,ある程度の持続性をもった物質系である。 多少閉鎖的性格をもつ湖沼,あるいは集水域を含めたものはこの見方が有効な対象で,それにより総合的な研究が容易になりうる。

(ii)新しい測定方法の開拓: 主として1950年以降盛んに用いられるようになった放射性同位元素,安定同位体元素,生物体のDNAなどの測定による方法の開発で,種々の生理作用の測定,食物連鎖構造,湖沼の代謝や物質循環などの解明,生物の系統進化的研究などの途が拓かれた。

(iii)試料の精密自動分析機,環境要因の次期装置の開発,その他の研究機器の改良:これにより研究の精度の上昇,迅速化,省力化,時間的連続データの採取などが可能になった。

(iv)共同研究の増加: ここでいう共同研究とは同じ対象を大勢の研究者が,相互連絡の下で行うものを指す。 これには国際協力,2国間協力,国内の研究者だけなど,種々のレベルのものがある。 国際的なものにはIGY,IBP,MABなどがある。 2ないし数ヶ国間のものは近年は非常に多くなった。 国内のものも同様である。 こうした共同研究は,グループにより異なるが,一般に専門を異にする人たちが互いの知識,技術,経験の交換,批判,議論しあえること,自分の研究の全体とのつながりの把握ができることなどが良い点としてあげられる。

 ここでわが国の陸水学研究者が大勢参加したIBPのことを少し述べておく。 IBP(国際生物学事業計画)は第二次世界大戦後の人口爆発といわれた世界の人口増,近い将来に予想される食糧危機への対応のための基礎資料を得るために,ICSUの主導で,数十ヶ国の参加によって行われた国際協力研究である。 具体的には,陸上,耕地,内水面,沿岸海域などの主な生態系の物質生産の実態の調査・研究および保全,人間の住居環境の保全や,それへの適応性の解明を主体とするものである。準備期間を入れて,1965年から1974年までの10年間にわたって行われた。

 陸水学に関係のある内水面の研究グループはPFと呼ばれ,森主一さんが全体の世話をされ,湖沼では琵琶湖(貧栄養湖,参加研究者30名,代表者:三浦泰蔵),湯ノ湖(中栄養湖,30名,田中昌一・白石芳一),諏訪湖(富栄養湖,13名,倉沢秀夫・小泉清明),裏磐梯湖沼群(酸性湖,17名,山本護太郎),児島湖(人工湖,32名,伊藤猛夫),河川ではユーラップ川(15名,久保達郎・佐野誠三),吉野川(18名,津田松苗),養魚池(32名,伊藤隆),ベラ湖(マレーシアの熱帯湖,13名,森主一・水野寿彦)が調査・研究された。 それらはJIBP Synthesis. vol.10(東京大学出版会,1975)にみることができる。

 以上を通じて,わが国の研究者は貴重な経験とかなりの成果をあげたことは確かである。

(v)コンピュータの使用: これにより大量のデータを収集,整理,解析が容易になった。

 以上は集めた試料をぶち込めば,あとは機械がデータを出し,別の機械が整理・解析するという便利なシステムの話でもある。 便利さは悪いことではないが,研究の過程で直接現場・現物に向かい合うことが少なくなり,それによって失うものも多くならないかが心配になる。

 学会の発展はもちろんすべての会員の望むところであるが,これは現会員およびこれから入会される若い人たちの活動にある。 若い年齢層の人たちに陸水の魅力・関心を持たせることが重要である。 一方,現在の学会誌は現会員には指示されているが,若い人たちを引きつけるに十分とは思えない。 テーマ,場所は年々変わっても,学会の世話で,少人数の陸水に関する入門的な短期の講習会の開催を検討することも必要かとも思ったりする。



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